今年5月に他界されたヴァイオリニスト、ウェルナー・ヒンク氏と50年以上にわたり協業を続けてきた弊社代表取締役社長、およびレコード・プロデューサーの井阪紘からヒンク氏への追悼メッセージが、滞在中のウィーンより寄せられました。
弊社スタッフ一同、ウェルナー・ヒンク氏にあらためて哀悼の意を表し、メッセージを掲載いたします。
■ウェルナー・ヒンクの死は、私たちにとって最も悲しい知らせだった
井阪紘(カメラータ・トウキョウ 代表取締役社長/レコード・プロデューサー)
ウィーンには室内楽を楽しむ永い永い伝統があり、戦後でもアメリカ人の作った「ウェストミンスター」というレーベルに、バリリ四重奏団やウィーン・コンツェルトハウス四重奏団が数多くのレコーディングをしていて、日本人の多くの人が、そのレコードを愛聴してきた。
1960年代に入って、その活動に陰りが見えてきたときに、1964年にウェルナー・ヒンクたちが創った「ウィーン弦楽四重奏団」が、その伝統を継ぐようにスタートした。
コンツェルトハウス四重奏団の成した仕事で一番偉大だったと思えるのは、シューベルトの弦楽四重奏曲全集だった。この録音の初期の弦楽四重奏曲は、当時、正確なエディションが見つかっていなくて苦労したという話を、我々のレコーディング・セッションを見に来てくれたコンツェルトハウス四重奏団のチェリスト、フランツ・クヴァルダ本人から聞いた。
ウィーン弦楽四重奏団とは、RCA時代に「死と乙女」「ロザムンデ」、最後のト長調の弦楽四重奏曲あたりまでは録音したが、残りの曲を録りたいと思っても、録音経費とレコードの売上が見合わないと、会議で論議されただけだった。シューベルトの弦楽四重奏曲全集は「カメラータ」というレーベルを立ち上げた最初に私が取り組む仕事だと思って始めた。
幸いにも、録音が磁気テープの録音から、デジタル録音に変わる時代で、日本ビクターのプロ録音用のレコーダーをアピールする必要があって、15kg以上もある重い実験機材をウィーンに持参することを許可して運搬の航空運賃も半分負担してくれることとなった。録音エンジニアもいない私は、ウィーン大学のトーン・マイスターの教授にレコーディングのエンジニアを依頼したのだが、録音初日に「行けない」と急に言われて、バウムガルテンというスタジオ付の名エンジニア、カミコフスキー氏のヘルプで、仕方なく自分でマイク・セッティングをして録ったのが、カメラータとヒンクたちの最初の共業、シューベルトの「死と乙女」の録音であった。
アナログ時代、30cmの磁気テープ録音では、38cm/secでテープを回しても、30分しか録音できない。1枚のレコーディングに20本のテープを使うのは通常であり、その時は現地で基本的なテープ編集をして、残したテープをコピーを録ってもらった上で船便で送る。そんな方法で仕事をしていたのを覚えている。
ヒンクたちとのシューベルトの弦楽四重奏曲全集は、このように最初期に行われたデジタル録音で、録音を終えウィーンから帰国する際には、収録したUマチックのテープをLP2枚分の録音でも10本から12本に収めて持ち帰れた。
こうして始まったヒンクたちと私とのシューベルトの弦楽四重奏曲の全曲録音は、4~5年かかって完成したが、すべてはシューベルトの創作に奉仕した音楽活動のつもりであった。
そこから、ヒンクの柔らかく優しく弾くヴァイオリン演奏を、どう音楽に残していけるかを考え、最終的に遠山慶子さんとのモーツァルトのヴァイオリン・ソナタの録音に結びついた。2人のデュオでは最初にシューベルトのソナチネ全曲やベートーヴェンのソナタ「春」なども録っていたが、時間がかかってもウィーンのバウムガルテンにあるベーゼンドルファーのピアノを使って丁寧に1曲ずつ録ると決めて準備を始めた。
これは、ヴァイオリン・ソナタ選集としてセットにまとめて出すこともできたので、2人の仕事に感謝しているが、これも比類なく優れたヒンクの演奏に助けられている。
草津で行われている音楽アカデミー&フェスティヴァルの開催期間は、ザルツブルク音楽祭の真っ最中なので、1996年になるまでヒンクは参加を遠慮していたが、なんとか他のコンサートマスターと調整して行けるようにスケジュールを組むと宣言して、草津に来るようになり、特に美智子上皇后とは都合8回もそこで共演する栄誉をいただいている。それは上皇后様が、遠山慶子のパートナーであるヒンクに対して敬意を持たれていたこともあったと思う。
ウェルナー・ヒンクがウィーン・フィルのコンサートマスターを辞したのは2008年だったが、その年のニューイヤー・コンサートに、プレートルが指揮するにあたって第1コンサートマスターを引き受け、出演した公演は華やかで印象的だった。
2018年頃から急に音程等が確かでない状態になり、コロナの頃の2020年に入院して癌を発見。それでも快方に向かっていたが、この春に喉への転移が判明した。5月21日昼、やっと自宅に戻り、午後を家族と過ごし、その夜、眠るように亡くなった。
一緒に音楽にかかわって、家族同様に付き合って来ただけに、こんな素晴らしい音楽家を失って、私には言う言葉がない。
2024年6月11日 ウィーンにて
写真:(C) Wilfried Kazuki Hedenborg