エディット・マティスのインタヴュー

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 来日直前、エディット・マティス(ソプラノ)の長文インタヴューを掲載! これまでの歩みを振り返りつつ、9月に控えたリサイタル・ツアーへの思い入れを語ります。

(協力:『カザルスホール・フレンズ』誌)

エディット・マティス インタビュー

聞き手/山崎 睦
2001年6月22日、ウィーンにて

──ウィーン国立オペラでマティスさんの舞台をたくさん拝見してきました。フランコ・ゼッフィレッリ演出の『ドン・ジョヴァンニ』プレミエでツェルリーナをお歌いになったのが、やはり印象深くて。テオ・アダム、ペーター・シュライヤーとご一緒でしたね。

マティス(以下M)M 70年代の初めですね。指揮はヨーゼフ・クリップスでした。

──1972年です。それ以後、ツェルリーナ役で85年までのあいだに合計32回も出演してらっしゃるのですよ。

M まあ、そんなに。自分では覚えていませんけれど。

──公演記録がありまして、『魔笛』のパミーナが41回と最多記録で、『フィデリオ』のマルツェリーネが18回、『フィガロの結婚』のスザンナが15回、それに60年代にはケルビーノも3回。『魔弾の射手』のエンヒェンが7回。

M だんだん思い出してきました(笑)。

──それとリヒャルト・シュトラウスでは『アラベスク』のズデンカを5回と『ばらの騎士』のゾフィーを6回です。『ばらの騎士』といえば、ザルツブルクでマルシャリン(元帥夫人)がたいそう評判になりましたね。

M 秋の「芸術週間」で、ヨアフム・ヘルツ演出によるプロダクションです。もう5、6年前になりますね。どうしても一度はマルシャリンを歌いたいと思っていましたので、あるときインダビューでそのことを話題にしたのです。ベルン(スイス)の監督さんがその記事を読んでいて、彼から早速オファーが来ました。それがきっかけで最初の『ばらの騎士』が実現したのです。その後チューリッヒ、ハンブルク、ミュンヘン、そしてザルツブルクという具合に続きました。ドイツ系のソプラノにとっては、やはり最高の役柄ですから、私も実際に歌うことができて満足しています。

──ザルツブルク音楽祭には1960年にデビューをされていて、マティスさんはモーツァルトの『ラ・フィンタ・センプリーチェ』(見てくれの馬鹿娘)のニネッタ役で出演されていますが、祝祭劇場が落成して、カラヤンによる伝説的な『ばらの騎士』が上演された、記念すべき年です。リーザ・デラ・カーザとエリザベート・シュヴァルツコップがマルシャリンを歌ってセンセーションを巻き起こしています。

M もちろんよく覚えていますよ。私は、なにしろ駆け出しでしたから、隅っこで小さくなっていましたが、セーナ・ユリナッチのオクタヴィアンも素晴らしかったですね。そのときの記憶が強烈で、いずれは自分でもマルシャリンに挑戦しようという意欲を持つようになったのだと思います。
 オペラというのは非常に運に左右されるところがあって、本人の才能とは別の、いろいろな要素で決まるものなのです。だから私がいくらマルシャリンを歌いたいと思っていても、歌手としてちょうど適切な時期に、その役が回ってくるというのは幸運としかいいようがないですね。60年代は『フィガロの結婚』のスザンナの方が身近で、実現を希望していたのです。やはりザルツブルクで経験したイルムガルト・ゼーフリートの素晴らしいスザンナがお手本でした。でも当時の私のもち役はケルビーノで、この役は日本でも歌っています。

──1963年のベルリン・ドイツオペラ(DOB)公演でしたね。

M 私の日本デビューでもあり、カール・ベームが指揮しました。日生劇場のオープニングだったんですね。皆若くて、楽しい思い出がたくさんあります。ベームも元気でしたしね。
 ザルツブルクではデビューの年にベルンハルト・バウムガルトナー指揮でモーツァルトの『ミサ曲 ハ短調』も歌っています。聖ペーター教会が会場でした。その後もザルツブルクにはずっと出演していて、『フィデリオ』のマルツェリーネ役で3つの異なったプロダクションに出ています。まずベームと2つの版で共演し、カラヤンとは復活祭音楽祭で。ベームとはさらに『ドン・ジョヴァンニ』『ばらの騎士』、カラヤンとは『魔笛』『フィガロ』。コンサートでもたびたび歌っています。

──子供の頃から歌がお好きだったんですか。

M そうです。いつでも、どこでも歌っていたと母が言っておりました。

──ご家族に音楽家はいらしたのですか。

M いいえ、ごく普通の家庭で、音楽はホビーとして好きという程度です。ただ、教育熱心で7歳からピアノを習わされましたが、私はピアノがそれほど好きではなくて、真剣に練習するようになったのはかなり後のことです。歌の勉強を始めてから、ようやくピアノの重要性が分かったというか。15歳でルツェルン音楽院に入学して、エリザベート・ボスハルト先生のもので声楽を始めました。最初に先生は、私が子供で未成熟だから弟子にできないといわれたのです。それで、知っている曲を歌ってデモンストレーションしました。ザラストロから夜の女王、オランピアと、あらゆる曲を(爆笑)。

──たくさんご存知でしたね(笑)。

M ラジオで耳から聞いただけですが、すぐにおぼえて歌うことができたのです。スカラ座やザルツブルク音楽祭の中継のときはラジオの前に座って、一所懸命聴いていましたから。ボスハルト先生は、「もうこうなったら、何もしないで放っておくわけにはいかない。そんな歌い方をしていたら早晩声帯を壊してしまうから、私の言いつけを守りなさい」と。それで、毎日20分間だけ歌うことを許されて、時間をかけてゆっくりと喉の成熟を待ったのです。

──オペラ歌手としてのデビューは1957年ルツェルンの市立劇場ですね。

M そうです。まだ学生で、演目は『魔笛』、役は第二の童子でした。劇場の監督兼首席指揮者が、同時に音楽院の校長だったので、彼は私のことをよく知っていて、チャンスをくださいました。デビューが成功して、それからいろんな役をいただき、後になって私のレパートリーになるモーツァルトを、このときたくさん歌いました。『セヴィリアの理髪師』のロジーナも歌ったんですよ。スタートの時点で非常によかったと思っています。

 ボスハルト先生は素晴らしい教師で、私にとって唯一の先生です。彼女はチューリッヒから週に二度ルツェルンに通ってきていました。プロとして活動を始めてからも、20年間、彼女が亡くなるまで、ずっとコントロールをしていただきました。歌手というのは、つねに客観的に聞いてくれる指導者を持っていないと自分のコンディションが維持できません。それで、70年代の半ばでしたかしら、ベルリンで『ばらの騎士』のリハーサルの最中に彼女が亡くなったと電話が入ったときは、悲しいと同時に、もう私の歌手生命は終わりだ、と思ったほどです。かなり後になって、やはりコントロールの必要性を痛感して別の先生をさがすことになりました。同じ門下の同級生で、モーツァルテウムで教えていた人です。

──ルツェルン・デビューの2年後に音楽院を卒業して、ケルンの歌劇場と契約を結んでいますね。

M ヴォルフガング・サヴァリッシュ、それに演出家のオスカー・フィリッツ・シューも当時ケルンにいましたから、そこで私はオペラ歌手として必要なこと一切を教わりました。歌とか演技ということだけではなく、プロフェッショナルとしてオペラハウスでの生き方、アンサンブルの一員としての身の処しかたです。小さい役をたくさん、ほとんど毎晩歌っていましたが、新人にはこれも大切な訓練なのです。
 ケルンで歌い始めた直後ですが、『後宮からの誘惑』のブロントヒェンを歌っているとき、サヴァリッシュから伝言が届けられて、幕間に自分のところに来るようにというのです。高いe(ミ)がちゃんと歌えなかった直後のことなので、てっきり解雇されるのかと怯えていました。ところが、「君は重要な役のみを僕とだけ歌いなさい!」と言われて、早速『ファルスタッフ』のナンネッタをいただいたということがありました。素晴らしい贈り物でしたね。小さな役から解放されて、サヴァリッシュが指揮するプレミエに出るようになったのです。このとき習った『ジャンニ・スキッキ』のラウレッタを、後に東京でも歌っていますよ。フィッシャー=ディースカウと一緒に。

──60年のザルツブルク・デビュー以後、62年に一挙に活動の場が拡大していきますね。グラインドボーン、ハンブルク、ミュンヘン、ウィーンと重要な舞台でのデビューが続いています。

M ハンブルクに関しては、もうケルンにいたときから関係ができていました。とにかく、目の回るような時代でしたね(笑)。それでニューヨーク・メットとロンドン・コヴェントガーデンに登場したのが70年です。

──レパートリーについてお話ください。

M やはりモーツァルトが中心で、ほとんどの役は歌っています。『魔笛』の夜の女王はコロラトゥーラだからできませんが、『イドメネオ』も私のレパートリーですし、例えば『フィガロ』ではバルバリーナから始まってケルビーノ、スザンナ、伯爵夫人まで、全部の女声パートを歌ったことになります。

──段階的に出世していったわけですね。『ばらの騎士』でも、ゾフィー、オクタヴィアン、マルシャリンと進んでいくケースがありますが。

M オクタヴィアンは歌ったことがないのです。私にとっては音域が低すぎるので。それとオクタヴィアンはメゾソプラノの音色に合わせて作曲されていることも考慮しないといけませんね。『魔弾の射手』ではエンヒェンのほかにアガーテも歌っています。モダンな作品ではヒンデミットの『画家マティス』、リーバーマン時代のハンブルクでゴットフリート・フォン・アイネムの『引き裂かれた人』の初演、ヘンツェの『若い貴族』の初演にも参加しました。ベルリンでのことで、総監督のルドルフ・ゼルナーが演出したプロダクションです。

──これまでたくさんのロールを歌ってこられて、どの役が一番お好きですか?

M スザンナです。音楽的にも素晴らしいですからね。オペラとしては『コジ・ファン・トゥッテ』が好きなんですが、私の持ち役であるデスピーナは、それほど魅力的な役ではありません。フィオルディリージが素敵で、私の夢だったのですが、困難な部分があって、残念ながら結局あきらめました。ドラマティックな要素が必要で、私の声には危険なのです。

──ご自分のキャラクターもスザンナに似ていますか? 世話好きで、いろいろ仕切るのがお上手とか。

M さあ! 演出家に聞いてごらんなさい。プロダクションによって性格が非常に変わるのですよ。もちろん、それが面白いところでもあるのですが。私はいろんなことを組織だってアレンジするのは苦手だから、実際はスザンナになれないでしょうね。

──長期間にわたってオペラ界のトップとして、第一線で歌い続けてこられた秘訣は何でしょう。ずっとボスハルト先生についてコントロールを受けていらしたという話はうかがいましたが。

M 自分の歌う役柄には細心の注意を怠らず、危険な役柄には手を出さないこと。コントロールをしてもらう人間が絶対に必要であって、物事を客観的に把握できる習慣をつけないといけないでしょう。とくに歌手というのは、往々にして自己中心的になりがちだからです。テクニックの点で壁にぶつかったとき、そのような困難な状態を切り開くためには、つねに自分の歌を冷静に、客観的に判断できなければなりません。
 それと重要なことは、私がリートやオラトリオを非常にたくさん歌ってきたことです。オペラだけの歌手は安定した声のフォルムを維持することが難しいのですが、コンサートで歌うことによって矯正できるのが、大きなメリットです。リートでは、いかに大声で歌いまくるかというのではなく、声楽的にも、解釈においても芸術的な洗練ということをつねに意識しないといけないからです。リートはピアノ伴奏だけではなく、オーケストラ伴奏の場合でも事情は同じです。オラトリオ、カンタータもきちんとしたテクニックの詰めが要求されますからね。

──最近は毎年、草津の音楽祭にいらしてますが、どういうところがお気に召したのですか?

M 家族的な雰囲気がまず第一です。教授陣もだいたい同じ顔ぶれで、親切な皆さんに再会する喜びというのが非常に大きいのです。私の生活から草津が欠けるということは考えられないですね。新しい出会いがあり、学生たちも大変気に入っています。草津で教えた学生たちが、ウィーンにまで来て勉強を続けています。
 いま草津ではホテルで歌うチャンスが頻繁にありますから、お客様の前で歌うという目標が目の前にあると教える方も学生も励みになって、とても良い企画ですね。最後のコンサート、マラソン・コンサートと、いろいろ機会が与えられています。

──今回、カザルスホールでのリサイタルに際して、プログラムはどのように選ばれましたか?

M まず私が大好きな曲、歌いたい作品を選びました。プログラムの構成はいつも難しいのですが、ここでは私のキャリアのまとめ、総括という意味を込めてあります。シューベルト、ブラームス、リヒャルト・シュトラウス、これらの歌曲は、これまで私の人生と一緒に連れだって歩いてきたものです。古典歌曲としてハイドンを選びました。主催者からはモーツァルトの希望がありましたが、ハイドンの歌曲がいかに高い完成度に達しているかを認識していただきたいので、あえてハイドンにしました。

──マティスさんの44年間いわたるキャリアの総決算ともいえるリサイタルを、ぜひ大勢の方に聴いていただきたいですね。これは大書しないといけません。ご成功を祈っております。

(『カザルスホール・フレンズ』7月号より転載)

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